他者の体験を引き受けるということ
立花隆著『シベリア鎮魂歌——香月泰男の世界』(文春学藝ライブラリー)
香月泰男が鬼籍にはいって52年が経つ。香月泰男。近代日本を代表する洋画家であり、シベリア抑留を生き抜いた体験とそこでもたらされた反戦の思想をキャンバスにぶつけ続けたひとである。
明治維新以降、近代日本は富国強兵のもとに軍備を拡張し、多くの国々と戦火を交えてきた。有史以来、戦争は世界の到るところに勃発し耐えることがない。現在もまたそうである。そして、近代日本も例外ではなかった。あまたの人びとがその犠牲となってきた。なかでも、とりわけ第二次世界大戦による戦禍は、現代のいまもなお深い傷跡を残している。
わたしは、人間とそのくらしをこころの視座から見つめる心理臨床家という生業なのだが、それをおいてもひとりの人間として、自身の内なる何かに導かれて、これまで何度も戦禍の地に足を向けてきた。そのたびごとに、若いころに、ある母親からぶつけられたことばを想起するのである。
「先生はこんな子を育てたことがないから、わたしの辛さなんてわかるわけがない」。
身体に重い不具合を抱えてひとりではほぼ何もできないわが子の手足となって生きてきた母親のことばである。そこには、同じ体験をした者でなければわかり合うことはできないという、たしかな真理がある。けれども、誰かと同じ体験をすることなど、はたしてできるのであろうか。そうしていつしか、「体験」が心理臨床家としてのわたしのキーワードになっていった。
戦禍の地を訪ねて、足を踏みしめて、その地の歴史を追体験しようとする、そんなことを積み重ねてきた。原爆による「黒い屍体」の地広島と長崎。地上戦の悲劇の地沖縄、さらにはアウシュビッツへと。けれども、シベリア抑留のことは書物では知ってはいたものの、その地を訪れたことはまだない。それがどんなに悲惨な体験であったかは、書物からの知識の範囲内にあって、まだ何も、実感としては掴めてはいなかった。
今回紹介する作品に行き着いたのは、あるひとから香月泰男を教えられたことによる。ジャーナリストの立花隆さんは、実際にシベリアに行き、その地で香月が味わった体験を自身の身に引き受けようと追体験し、そうして鎮魂歌を奏でたのであった。
たとえば、シベリアを表現するのに、零下30度の極寒の地などという表現があるが、そういわれてもその極寒を身に染みて受けとることはできない。立花さんが訪れたときは零下20度くらいだったという。そのくだりにはこうある。
寒いことは寒いけど、シベリアではまあ普通の温度です。……人間零下二十度くらいまでなら、なんでもなく耐えられます。耐えられなくなるのは、それに風が加わったときです。
立花さんは香月が運ばれたように、トラックの荷台にのって香月を追体験しようとする。三十キロほどで走るトラックの荷台の上にいると、
たちまち唇は紫色になり、顔面はバリバリに固くなって、ほとんど凍りついたような状態になります。目も開けられないし、声を出そうとしても声が出ません。呼吸も困難になります。
立花さんは極地用の完全防備だったけれども、
それでも死ぬ思いがしました。当時の香月さんたちは、防寒具も、靴も大したものがなく、……数十キロ離れた収容所までずっと運ばれていった……わけですから、ほんとに死ぬ思いだったと思います。
そのときの香月泰男の体験が「乗客」という作品になったのだという。このようにして、立花さんの追体験のありようと、そこから推し量る香月の体験とその絵筆による作品の説明を合わせて、極寒の地シベリアを、わたしもこころの手足で味わってみようとする。ふと、アウシュビッツ強制収容所の引き込み線に立ったときの感触がこころに湧き上がってきた。「思いを馳せる」とはこういうことなのだと身に染みて感じる。
さて、「体験」については香月泰男もこう語っている。シベリアから復員して20年以上が経ち、「シベリヤ(ママ)・シリーズ」としてその体験を描いて個展を開いていたころ、作品を見たあるシベリア抑留者がこう口を開いたという。
シベリヤなんてこんなものじゃない、と吐き捨てるようにいった。
香月さんは思った。
何万というシベリヤ抑留者がそれぞれに違うシベリヤ体験を持っている。同じ収容所で同じ期間を過ごした人たちの間でさえ、その体験の受けとり方がちがう。
やはり体験はひとそれぞれなのかも知れない。香月泰男は、私にとってシベリヤとは一体何だったのだろうかとの問いへの答えを、自問自答しながら、試行錯誤しながら、キャンバスにぶつけたのであろう。それは、自分にとってのシベリア体験を伝えようとする姿に他ならない。では、香月泰男は何を伝えようとしたのであろうか。
シベリア抑留という地獄さながらの日々のなかで、香月泰男は自然の美しさに何度も目を奪われたという。
惨めさと労苦の日々の中にも、一瞬声を発したくなるような美しさを何度かみた。……収容所の凍り付いた窓ガラスの霜の結晶。……山の稜線をころがるように沈んでいった赤い小さな太陽も息をのむほど美しかった。
画家の天性をみる思いがする。そして、自然の美しさはまた人間の卑小さや愚かさをも思い知らせたことだろう。そのなかで香月は、自分もまた、自然という生きとし生けるもののひとつとしてこの世にあるという一体感のようなものを体験したのではないだろうか。
私が美しさを見出した雪空の二羽のカラスに、ある人は不吉な予感を感じていたかもしれない。収容所の生活で人間に絶望した人も多いだろう。が、生きる喜びを発見したひとも多いはずだ。
けだし、自然はすべてのひとに分け隔てない。たいせつなことは、それといかに交感して自身の生を営んでいくのか、であろう。アウシュビッツ強制収容所の北東にあるマイダネーク強制収容所、そこは第二次世界大戦後の救済活動のなかでエリザベース・キューブラー・ロスが魂の医師になることを決意した場所だが、その地を歩いているとき、建物の脇に鮮やかに咲くオレンジ色の花の美しさに思わず見入ったことがあった。体験はひとそれぞれである。であったとしても、いずれ生への傾斜を促すものでありたいと思う。
日本画家の血を引く香月泰男の画家としての道は、まず東洋画への傾倒から始まった。長じて西洋画を学ぶなかで、そのふたつが底部では非常に接近している、いや、ほとんど一体であるとさえいえることに気づく。そして、やはり同じ人間である以上、共通の理解の原点になるものがあると語るのである。人間のこころの深層には人類共通の要素があると強調するのは心理学者のカール・ユングだが、香月のいう共通の理解の原点もそこを遠祖としているように思える。ユングがそこに「創造性」の働きをみたように、香月泰男は生きる喜びの発見を知る。
芸術とは自分を発見していく過程である。
この生きる喜びの発見はまさに、創造性の所産としてのシベリヤ・シリーズをもたらしたように思うのである。
今春、舞鶴引揚記念館を訪れた。展望台から復元引揚桟橋を望む。終戦後13年間に亘って旧ソ連や中国などの大陸から迎え入れたのは、実に66万4,531人の引揚者と16,269柱の遺骨だった。最終船が祖国の地に帰還したのは昭和33(1958)年9月7日のことだった。それはわたしの生まれた翌年に当たる。舞鶴港を眺望しながら、戦争は遠い過去のことではなかったと独りごちた。こころの深部が揺れた。
( 『看護展望』「こころをみつめるVol.199」メジカルフレンド社、第49巻第8号86--87頁、2024年7月を改稿。太字は引用)